「私に、欲しいものなどありません」
淡々と言うその声音に、底冷えするような恐怖を感じた大名の顔は青ざめていく。
「では……どうすればいいのだ?」
大名は慄きつつ、雛の表情を必死に汲み取ろうとする。
しかし、返ってきた言葉は期待を裏切るものだった。「……死んでください」
大名の瞳が大きく開く。
何か言おうとしたが、そのときにはもう既に雛の刃が大名を貫いていた。一瞬の出来事に何が起きたのか把握できない大名だったが、じわじわとやってくる痛みで事態を把握する。
大名を貫く刃の先から、血がポタポタと滴り落ちていく。「くっ……き、きさま――ゆる、さ……ん。
この、ままで……すむと、おも……う……なっ」雛が刀をすばやく抜くと、大名はズルズルゆっくり倒れていく。
そのとき、ようやく宇随が姿を現した。
「雛!」
声に反応し、雛はゆっくりと振り返る。
その雛の様子に宇随は愕然とした。いつもの、雛じゃない。
感情のない虚ろな表情で、今意識がしっかりあるのかないのかも判別できない。 しかし、目だけは鋭く、しっかりと獲物を捕らえようと光を放っている。――今の雛に狙われたら、きっと誰も生きて帰れない。
そう感じるほど、雛は殺気と狂気を孕んでそこに立っていた。見つめられた宇随は、初めて雛に恐怖を感じた。
「おい……大丈夫、か?」
一歩踏み出した宇随は、近くで倒れている男に蹴躓いた。
その男が小さく呻く。「生きて、る……?」
どうやらここに倒れている男たちは大名を除き、皆生きているようだった。
雛が情けをかけて生かしたのだろうか。宇随が雛を見つめる。
雛は血に染まった刀を持ったまま、ただ立ち尽くしている。
こちらを見てはいるが、焦点は定まっていない。宇随は近づいていき、雛の正面に立った。
「雛、もう終わった! 終わったんだ。
沈黙の中、雛は神威のことを考えていた。 前にも思ったが、本当に神威は私のことを女だとわかっていないのだろうか。 さっきは、裸を見なかった? いつも雛が裸の時、視線を逸らしているのは雛が女性だと気づいているからではないのか? 今回のことだって、男を心配して待っていたりするだろうか。 今までの神威の言動を考えると、彼は雛のことを女だと気づいている可能性が高い。 しかし、そうすると何で黙っていてくれるのだろう。 問い詰めたり責めたり誰かに言ったり、なぜしない? それは彼がすごく優しい人だから? 雛はそっと神威を盗み見る。 綺麗な顔―― その横顔に、雛は見惚れてしまった。「ん? ……どうした?」 神威が極上の微笑みを雛に向けてくる。 雛は顔が赤くなるのを隠すため、急いで顔を背けた。 あ、危ない。あの顔は反則だ。「いえ、なんでも」 「そう」 雛の心臓が早い速度で脈を打つ。 私、もしかして、もしかしなくても、神威さんのこと――。 雛はそのときようやく自分の気持ちに気づいた。 雛の顔が茹でダコのように真っ赤に染まっていく。 どうしよう、そんなことに気づいても、私は今、男なのに。 戦いに集中しないといけない。 恋なんかに現を抜かしていてはいけない。 雛は自分を戒めた。 ふと、雛の脳裏に、神威の婚約者である舞の顔が浮かんだ。 そう、そうだよ。 神威さんには、舞さんっていう立派な婚約者がいるんだ。 私がいくら好きになったって……。 それに今はこんな格好だし。 雛は自分の姿を改めて見つめる。 こんな男の格好して、刀を持って人を殺める女なんて、誰が好きになる? あの舞って人は女性らしく、清楚でおしとやかで――とっても女の子らしくて可愛かった。 はじめから結果は見えている。 雛が急に下を向き、落ち込
着替え終わった雛が銭湯から外へ出る。 すると、すぐ側の壁に寄りかかり待っていた神威が目に飛び込んできた。 雛に気づくと、神威は手を上げ微笑みかける。「お待たせしましたっ」 先ほどのこともあり、雛は気恥ずかしくて少し俯いた。 着物から微かに匂う神威の香り……これもソワソワさせる大きな要因になっている。 風呂上りだからか、顔も火照り雛の頬を赤く染めていた。「じゃあ、行こうか」 神威の優しい笑顔につられる様に、雛は歩き出した。 二人は夜の町を並んで歩く。 先ほどから二人は何も話さず、沈黙が流れていた。 雛はそんな空気に我慢できず、口を開いた。「あの、なんで、その、着物が無いことがわかったんですか? なんで着替えを貸してくれたんですか? なんで神威さんあそこにいたんですか?」 雛は聞きたいことがあり過ぎて、一気に捲し立てるように話した。 神威は勢いに圧倒され、驚き、目を丸くして雛を見つめる。 引かれてしまったかと思い、雛は気まずそうに目を逸らした。「す、すみません」 「いや……そうだよな。君にとったら、わからないことだらけで混乱する。 わかった、一つずつ説明するよ」 神威は優しく微笑み、ゆっくりと話し出した。「まず、なんで君の着物が無いことに気づいたかというと……。 俺が銭湯の外で待機していると、山本が君の着物を持って銭湯から出てきた。そのまま焦った様子で去っていくのを見た。 不可解な山本の姿から、俺はその行動の意味が推測できてしまった。というところだ。 それで、なんで着替えを貸したかっていうと、それは君が困っていると思ったから。 そして、なんで俺が銭湯の前で待機していたかっていうと――」 神威は少しの間沈黙した。 言おうかどうか迷っているように見える。「君を待っていたんだ」 「え? 私を?」 「ああ、君はいつも遅く銭湯に来るだろう
雛たちは日々任務を遂行していく。 黒川からの指示に従い、伊藤が作戦を考え皆に伝える。 そして隊員たちが実行に移していく。 それの繰り返し。 黒川がこれから台頭するのに邪魔と思われる人物を、次々に暗殺していった。 しかし、一向に世の中がよくなっているようには思えず、日々民からの悲痛な叫びや嘆きが聞こえてくる。 雛は日に日に黒川への疑心が深まっていくのを感じていた。 ある日、雛は伊藤のもとへと向かった。 あのことを相談しようと心に決めていた。「失礼します」 「どうぞ」 伊藤の部屋へ雛が入ると、彼は書物に目を落としていた。「少しだけ待ってくれるか」 そう言われ、雛は座りしばし待つことに。 しばらくすると、伊藤が雛の方へ向き直った。「待たせたな」 いつも通りの優しい伊藤の笑顔。 雛は怯む心を叱咤して、意を決して話し出した。「伊藤さん、私たちのしていることは正しいのでしょうか。 黒川様のお考えは私にはわかりかねますが、このまま命令に従っていても、この国はよくならないような気がするのです」 伊藤は雛の言葉を聞き、しばらく黙り込む。「私も最近そのことで悩んでいたところだ。 黒川様のことは尊敬している。 ――しかし、最近の黒川様がされていることには、何か違和感を感じていた」 「人々は今も苦しんでいます。できるだけ早いご決断を」 雛が真剣な眼差しを伊藤に向けると、伊藤は深く頷き返した。「……そうだな。一度黒川様のことを探ってみる。 もう少しだけ待っていてくれるか」 伊藤は苦しそうに表情を歪める。 今まで尊敬し、従ってきた相手を疑うのは心苦しいだろう。 その深刻そうな表情に、雛はこれ以上何も言えず、一礼し立ち去った。 伊藤の部屋から出てきた雛の様子を、物影に隠れ、睨みつけている人物が一人。
宇随は雛の瞳に吸い込まれるように、ゆっくりと顔を近づけていく。「おい!」 突然の声に驚き、宇随は我に返り、動きが止まった。「おまえら、こんなところで何してるんだ!」 神威が急ぎ足でこちらへ向かってくるのが見える。 その表情はなぜか怒っている? ように感じられた。「あれ? 俺……」 宇随は素早く目を瞬かせながら、何かつぶやいている。 宇随がいったい何をしようとしていたのか、雛にはその意図がわからなかった。 それよりも、神威がなぜここにいるのかの方が気になった。「神威さん、どうしたんですか?」 雛が不思議そうに尋ねると、神威は視線を逸らして話し出す。「水が飲みたくて……起きたら、おまえら二人とも布団にいないから、心配で探してたんだ」 「あ、そっか。ごめんなさい、心配かけて。 私がいけないんです。宇随さんは私を心配して探しにきてくれたんです。 皆さんにこんなに心配かけてしまって、私は駄目ですね」 申し訳なさそうにする雛を、神威が優しく諭す。「もういい。体が冷えるといけないから、もう寝なさい」 「……はい」 二人にお礼を言うと、雛は素直にその場から立ち去っていった。 神威と二人きりになった宇随は、妙に居心地の悪さを感じ、さっさとその場を去ろうとする。「さて、俺もそろそろ寝ようかなー」 宇随が立ち上がり、そっと歩き出した。「おい」 神威の低い声が宇随の耳に届いた。「は、はい!」 宇随は恐る恐る、ゆっくりと神威の方へ振り返る。 神威はわずかに下を向いており、表情が読めなかった。「おまえ……さっき斎藤に何しようとしてた?」 「え? えーと、あんまり覚えてなくて。意識が飛んでたというか……」 宇随が口を濁していると、神威が宇随の目の前に立ち睨んでくる。「変なことしようと、してないだろうな?」
皆が寝静まり、夜の静寂に包まれた頃。 神威のことが気になって眠れない雛は、一人縁側で夜空を眺めていた。 大きなため息が、雛の口からこぼれた。 そのとき、雛の肩に羽織がそっとかけられる。「どうした? 眠れないのか」 優しい笑みを浮かべた宇随が、雛の隣にそっと腰を下ろす。「宇随さん……ありがとう」 雛が小さく微笑み、お礼を言う。 照れくさそう笑った宇随は夜空を見上げた。「星が、綺麗だな」 しばらく二人は夜空を眺めていた。 いつもはよく喋る宇随も、その時はなぜか静かだった。「俺さ……孤児だったんだ」 急に宇随がぽつりとつぶやいた。 突然の告白に驚いた雛は、宇随を大きな目で見つめる。 宇随は夜空を眺めながら、懐かしそうに目を細めた。「でも、俺は恵まれてた……今の家族が拾って育ててくれたんだ。 父親は農民で、そんなに裕福でもなかったし、金に困ってた。子どもを拾って育てる余裕なんてないだろうに、自分の子と同じように愛してくれたよ。 本当に感謝してる。 だから俺が一旗上げて、家族に恩返ししたいんだ。 もちろん俺だって、それが世のため人のためになるなら、それに越したことはねぇって思う。 こんな俺でも役に立てるんだって、嬉しいしさ」 宇随は照れくさそうにはにかんだ。 なぜ彼がこのような話を始めたのか、意図はわからなかった。 しかし、こんな大切な話をしてくれるということは、信頼されているのだ。と思うと、雛は嬉しかった。 雛は静かに、宇随の話に耳を傾けた。「俺、バカだからうまく言えないけどさ――おまえはすごい奴だと思ってる。 雛のその力を、悪いことに使えば世界は悪くなるし、良いことに使えば世界はきっとよくなる。 おまえがその力を使うことによって、きっと助かってる奴が絶対にいると思う。 苦しみや悲しみから解放される奴が、これからもおまえを待ってる」 宇随は真剣な
舞と呼ばれた女性は、おしとやかな足取りでゆっくりと神威の側へ歩いてくる。 そして神威の前に立つと、可愛い笑みを向けた。「神威様にお会いしたくて……。 屋敷を訪ねたら不在でしたので、仕方なく町を散策していましたの。 そしたら、あなたをお見掛けして」 「言ってくだされば、私から会いに行きましたのに」 「いえ、あなたの邪魔になりたくないもの」 会話の内容と二人の雰囲気、そして舞の神威を見つめる瞳。 これだけ揃えば、雛にだってわかる。 二人は恋人同士なのだと。 雛はなんとなく居心地が悪くて、どうしたものかと下を向いていた。 すると、雛に気づいた舞が神威にそっと耳打ちする。「あの……あの方は?」 舞の視線の先に、雛がいることを感じ取った神威は、雛を一瞥してから舞に微笑みかけた。「ああ、彼は私と同じ隊の者です」 「男性……なの?」 舞が雛を上から下まで舐めるように見た。 同性からだと、女性だと見破られてしまう恐れがある。女性の感は計り知れない。 そう思い立った雛は、慌てて舞の方に駆け寄り挨拶した。「は、はじめまして。斎藤雛と申します」 「雛? 女性みたいな名前ね」 雛はしまった、と思ったがもう遅かった。 余計に事態を悪化させてしまったかもしれない。 すかさず神威が助け船を出す。「舞さん、名前など関係ないですよ。 彼の剣の腕前は、隊一です。そんな女性がいると思いますか?」 「まあ、あなたより強いの?」 舞がすごく驚いた表情で雛を見つめている。 神威が慈しむような眼差しを雛に向け、静かに答えた。「そうですね……たぶん」 「まあ、それはすごい! 斎藤さん、お強いのね」 舞が雛に微笑みかける。 雛は神威の機転に感謝しつつ、複雑な心境で舞の笑顔に応えたのだった。 神威と舞が二人きりで話している姿を、雛は遠